第100回 武田三代SP 信虎・信玄・勝頼の足跡を訪ねて
伊東潤と中西悠理が甲府を起点に武田氏の足跡を辿る歴史旅。まず向かったのは、信玄を祭神として祀る武田神社。1519年、信玄の父・信虎がこの地に居館を移したことで甲府の街は発展した。武田神社の北東にそびえる要害山には武田氏の詰城も築かれた。武田家の菩提寺・大泉寺では信虎の肖像画や武田三代の木像を見ながら、各々の人物像に迫る。印傳博物館では武田軍団の甲冑や武具にも用いられた伝統の技と意匠を垣間見る。
富士河口湖町にある冨士御室浅間神社では甲斐の歴史を研究する上での基本史料と位置づけられる『勝山記』の記述をもとに、信虎の政治信条と行動を探る。1541年、信虎は息子・信玄らによるクーデターにより追放されてしまう。その裏には重臣たちの苦悩も!信虎の追放は悪逆無道な行為を重ね、家中や領民の間に不満が鬱積した結果だと伝わるが、信虎は本当に悪政を敷いていたのか?信虎の知られざる実像が今、明らかに!
武田家の家督を継いだ信玄は国力を強化すべく金山を開発。一行は身延町にある湯之奥金山を訪問し、金の採掘法を学ぶ。金山で働く金山衆の技術は武田氏の戦術にも活かされていた!さらに、採掘した金によって生まれたのが画期的な貨幣制度。富国強兵を推進する信玄は北への領土拡大を図り、苦心の末に北信濃の猛将・村上義清を下すと、日本海の港を手に入れるべく、越後を目指した。そして、川中島で宿敵・上杉謙信と激突する!



「人は城、人は石垣、人は堀」との言葉を残した信玄は何よりも家臣を大切にした。信玄は館に住み、堅固な居城は造らなかったと考えられていたが、近年、新たな事実が判明した。なんと、甲府の街を要塞化していたのだ!越後への進出を断念した信玄は太平洋側の港を求め、駿河に侵攻。しかし、これが嫡男・義信の謀叛を招いてしまう。クーデターに失敗し、謎の死を遂げた義信。その真相を歴史学者・平山優が解き明かす!
義信亡き後、信玄の後継者となった勝頼は1573年に信玄が他界した事実をなんと3年も隠し続けた。その理由を甲州市にある信玄の菩提寺・恵林寺で探る。宝物・武田不動尊に込められた思いとは?勝頼は長篠・設楽原の戦いで織田・徳川軍にまさかの大敗を喫してしまうが、再起を図り、現在の韮崎市に巨大な城・新府城を築く。城郭ライター・萩原さちこが新府城の遺構を巡り、特徴を解説。勝頼が描いたビジョンを読み解く!
1582年、織田軍が甲州攻めを開始。勝頼は新府城を捨て逃亡、わずかな手勢で戦うも力尽き、名門・武田家は滅亡してしまう。伊東潤と中西悠理が最後に訪れたのは、勝頼の菩提寺・景徳院。二人は無念の最期を迎えた勝頼の心中に思いを馳せる。戦国大名としての武田氏は滅びたが、その後、高家として復活。一族の子孫が先祖から受け継ぐ家訓を語る。そして、武田三代の足跡を辿り、改めて実感した、今日に通じる教訓とは?


