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名作劇場 木下恵介生誕100年 木下アワー3人家族

番組へのメッセージ

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昔からのコマキスト

TBSのドラマ制作局の英断なのか、木下恵介プロダクションの英断なのか知りませんが、このドラマは映画と同じように(フィルムで)制作されたので、45年後の現在でもこの名作を楽しむことができるんですね!このころ放送されたNHKの朝ドラや大河ドラマはどれも残っていないというではありませんか!(小巻さんが出演したというNHK大河ドラマ「三姉妹」を見たかったなあ!)
NHKの朝ドラ「おしん」が外国でも放映され、大人気だったことはよく知られていますが、これより先に、このドラマ「三人家族」も東南アジア等へ輸出され、外国にもたくさんのファンがいると聞いたことがあります。これも、フィルムで制作したTBSの英断のお陰です。それに対して、NHKは!当時はビデオの技術がいくら高価だったといえ、たくさんの名作を廃棄してしまうとは!それこそ取り返しのつかない、最悪の決断だったと言わざるを得ません!

2013/10/11(金)07:18

 

doki doki inu

楽しみに懐かしく拝見させて頂きました。
有難うございます。

兄弟等の再放送も出来れば宜しくお願いします。
楽しみにしております。

2013/10/10(木)16:36

 

モンスター

3人家族の番組は、録画で何回見ても心ときめきます!青春の琴線にふれる何かがあるのでしょう!決して裕福でない時代を一生懸命生きているロマンが、心を打つのかな~あ・・・?

2013/10/10(木)16:03

 

昔からのコマキスト

父親の耕作は、旧制中学卒ではなく、高小(高等小学校)卒ではないかと、にわかコマキストさんからの指摘がありました。そうかもしれません。その場合、高小は14歳で卒業ですから、そのあとすぐに現在の会社に(たとえば給仕として)入社したとすると、55歳の定年まで44(=55-14)年間勤めたことになります。耕作は、37年間この会社に勤めたといっていますから、44-37=4(年)だけ招集されて軍隊にいたことになります。この計算だと、太平洋戦争がはじまってすぐ赤紙が来て1942-45年の4年間軍隊にいたとすると、一応辻褄は合いますが、その間雄一が生まれていることを考えると、戦争末期の1943年の途中(29歳)から1945年8月(31歳)の2年ぐらい軍隊にいたと考えるのが自然(戦争が終わった1945年に元の職場へ復帰)。そうすると、2年間のブランクができるので、その間のことはいろいろ想像できるところです。

2013/10/10(木)09:40

 

タケル

 この投稿サイトがついに300件を超えましたね。45年前のTVドラマが、これほど愛されていることに驚きです。「3人家族」も「二人の世界」もそうですが、全ての「木下恵介アワー」をTBSが制作し配信したようで、現在と違って昔のTBSドラマ制作能力の高さは凄かったようですね。

 私がTBSの中で二つのドラマと肩を並べるくらいに好きな番組は、ノンフクション番組で「兼高かおる世界の旅」で31年間続いた作品だそうで、団塊の世代の私に外国の知識を植え付けた。番組の中での「兼高かおる」は気品があって誇り高く、各国の要人(後の大統領や首相)とのインタビューにも気後れすることなく、外国人を相手に日本人として堂々としていたことに、戦争を知らない自分たちだが、日本全体が敗戦から立ち直っていない時だけに誇りに思うことでいっぱいだった。ふっと思うことだが「兼高かおる」のような人が日本の外務大臣になっていたらと思う。

2013/10/09(水)21:57

 

にわかコマキスト

昔からのコマキストさんの話で思いついたのですが、このドラマの時代設定は、放映当時との同時進行で1968~69年だと思います。そして雄一の年齢は25歳。雄一誕生の頃、耕作は30歳で、太平洋(大東亜?)戦争も酣となっており、耕作の出征もその頃だったのでしょう。
耕作の当時の年齢から考えて徴兵年齢に達しての徴兵ではなく、戦争が激しくなってきたので「適齢」の男子に次々と赤紙が送られていた頃だったと思います。思いついたことというのは、「そんな頃の耕作によく子供を作る時間と余裕があったな」ということです。(「産めよ増やせよ」政策に協力したということかも知れませんが)
それと、耕作が旧制中学卒だったら、定年間際に半年にもならない期間、お情けで課長にしてもらうというようなことはなく(もう少し出世していた)、従って高小卒で就職し、転職で入社してから37年間勤めたということではないでしょうか。

2013/10/08(火)20:11

 

昔からのコマキスト

10/3のコメントで、以下のような質問をしました。


>24話の最後に、健と明子は羽田空港でデートしている場面が出てきますが、なぜ羽田へ行ったのでしょうか?


「にわかコマキスト」さんと「中華街」さんとがそれぞれ独自の解釈をしてくれましたが、当時の羽田空港は、現在の若い人たちが渋谷、原宿を歩くのと同じ感覚で、飛行機の発着を見に行っていたんですね。いわば、人気のデート・スポットの一つだったということです。他チャンネルで放映中の、同じ木下恵介アワーの番組「兄弟」を見ていたら、デパートの食堂に勤める女の子たちが休みの日に一緒に羽田空港に出かける話が出てきます。現在では、飛行機に乗るか、人を出迎えるか、見送るときにしか空港には行きませんが、当時の若い人たちにとっては車の「ドライブ」自体が楽しみであるように、飛行機の発着を見ることを楽しんでいたんですね!そうだったのかあ!

2013/10/08(火)19:50

 

昔からのコマキスト

以下もどうでもよい話ですが、雄一・健の父親耕作は定年を迎えますが、37年間この会社で働いたといっています。18歳でこの会社に入社したとすると、37年感働いて、18+37=55となり、当時の定年55歳に平そくが会うように見えますが、厳密に考えるといくつか問題がありそう。耕作は、おそらく旧制中学の卒業でしょうから、卒業のときの年齢は17歳のはず。また耕作は徴兵され、伍長として終戦を迎えたといっていますから、この間は会社で働いていないことになります。たぶん、戦後元の職場に復帰し、兵役の分は会社で働いたとみなされていたのでしょう。定年を迎える、このドラマの耕作は55歳の設定ですが、どうみても55歳には見えませんね!実際、耕作を演じた三島雅夫さんはこのとき62-3歳で、数年後には亡くなるんですね。

2013/10/08(火)06:13

 

タケル

 10/3の「にわかコマキスト」さんの指摘で、沢野の「いやいいんだ、それほど人は悪くないよ」の言葉について考えましたが、ようやく理解できたような気がしました。女性店員が「あちらが空いておりますけど」と言って雄一と敬子の後ろの席を勧めますが、そこに座って二人の話を立ち聞きするほど自分は「それほど人は悪くないよ」と言っているんですね。その言葉の意味がようやく理解できて落ち着きました。ありがとうございます。

2013/10/07(月)16:57

 

昔からのコマキスト

敬子は、たぶん、(たぶんではなく、きっと(笑))高卒だと思いますが、根拠は、敬子は23歳で、大卒なら入社して1年あるいは2年目ですが、仕事ぶりはもう少しベテランの感じ。ネットで調べると、1965年の女性の大卒(4年生大学卒)の割合は4.6パーセント(短大卒6.7パーセントと合わせても11.3パーセント)にすぎず、10人に1人もいない勘定です。1970年でも大卒の割合は11.2(短大卒6.5と合わせると17.7)パーセントです。敬子の家では敬子を大学にやる余裕はなかったでしょう。明子は、父親との会話の中で、(お父さんがいなくてもお母さんが頑張ったおかげで)普通のサラリーマン家庭よりむしろ豊かだった、ただ、お姉さんは少し(経済的に)苦労したみたいだ、といっています。姉の敬子が働き出して、稲葉家も余裕ができ、明子でも(失礼!)大学へ行ける余裕ができたということなのでしょう。

2013/10/07(月)06:59