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Will
2022/10/18(火)14:18
コーヒー
源頼朝は、武器をどのように入手していたのでしょうか。もし、奥州藤原氏が鉄の産地や武器の生産を行う人々、商いをする人々とうまく関係を築いて、むしろ武器以外の産業への転換を促進していたら、どうだったでしょうか。廃刀令以降、刀鍛冶が腕の良い包丁職人になったことなどもあるので、資金や産業を全体として、別に方向付けることを含めて奥州藤原氏の経済文化圏を拡大する方向性は、考えられないでしょうか。
2022/10/18(火)13:31
Au
奥州藤原氏の理想郷が仏教に基づいているにもかかわらず「罪を自分で背負って他の人々は極楽浄土に」とは、キリスト教的な行為にも感じました。
清盛と政策で完全に対立しないなら、平家と統治について政治的な同盟を先に強めておいたら、と思いましたが、滅亡は避けられないとすると別の方法になるでしょうか。
この時代の武器が鉄を基本としていたことを考えると、鉄の採掘権や流通を抑えることで、鎌倉からの攻撃を含めて安全保障に備えるということは、できたのか興味を持ちました。武器とその産業、資源への資金や流通を抑えることで、敵対的な勢力の力を削ぐという方向性は、経済力があれば検討できないだろうかと思いました。朝廷を始めとする諸勢力との均衡や域内の社会の発展、経済圏拡大や他の地域との関係構築など、他の政策とも並行できるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
2022/10/18(火)10:57
crossroad
中央と周辺の関係で、周辺の方が中央からの統制が効かずに柔軟性や多様性が増すことと同時に、太宰府のように中央の防衛ラインとして利用されやすいことも指摘されているので、「中央から干渉されず思い通りの国作りができた」ことは、中央とのパワーバランスが保てたことも大きいと思います。中心と周辺という意味では、「鎌倉」は、京都とは異なる中心を形成したとも言えると思います。
寛容さを保つ周辺が中央に飲み込まれたり、防衛に利用されないことの難しさを感じました。他に都市があまりないとなると、他の地域との同盟なども考えにくいでしょうか。海や島、(国外でも)国境地域などでも似たような課題があるので、重要なテーマだと思いました。
2022/10/18(火)01:57
T
奥州藤原氏は、貿易を中央を通じて行っていたとのことですが、なぜ、そこを朝廷を通じるだけでなく、独自にも国際貿易をする方策をを編み出すことがなかったのだろうかと思いました。中央と地方とのバランス感覚は、中央に贈り物をしなければ保たれなかったのか、海外の情報を入手するには至らなかったのでしょうか。地理的に関西や九州よりも交易には有利でなくとも、伊達政宗が西欧に目を向けたことを鑑みれば、立地だけの問題ではない気がします。
都落ちしたり流罪者などを受け入れる寛容性、義経を匿う多様な能力の受け入れの背景から、経済力や海外を含めたネットワーク構築などへと目を向けることがなく、戦争に目が向くのは、まだこの時代の感覚としては自然なのでしょうか。
2022/10/18(火)01:13
U.N.
藤原秀衡の回、大変面白いと思いました。
直接対決だけでなく、「抑止力」についても、誰もがその方向へと注力することは、軍拡に歯止めが効かずに国力の疲弊に繋がることも、また明白だと思います。緊張関係を高めないような相互の、また最終的には関係者全体での外交が本来的には重要ですが、頼朝のような姿勢で勢力もあるの相手を含めた交渉のあり方を学べるような歴史の事例を紹介して欲しいと思いました。
2022/10/18(火)01:08
服部ヒロシ
教えて加来先生。
服部半蔵について。
服部半蔵とはどういった人物でしょうか?実在しているのでしょうか?
小さいころ名字が服部というだけで、
忍者なの?など服部性特有のイジリ方をされてきましたが、
忍者との関わりはあったのでしょうか?
2022/10/17(月)00:34
やまのすけ
坂本龍馬の宿泊代は何処から出ていたのでしょうか?とうてい、坂本龍馬がお金を持っていたとは思えません。
2022/10/16(日)16:47
カマクーラー
加来先生に質問です。
先日の「おしえて~」のコーナーで、交渉はする前からほぼ決まっている、根回しができていると仰っていましたが、源頼朝と後白河天皇が会談したときも、やはり根回しというか裏でのやり取りが会う前からあったのでしょうか?
2022/10/11(火)20:26
葉っぱ
冠位十二階は豪族の特権を守りながら能力主義を入れているなどからも、馬子とも共働するような政治性もあると聞かれますが、そのことからしても長生きしていたら朝廷を牛耳りたいという蘇我氏を抑え続けることもできたでしょうか。遣隋使のやり取りも、実際には隋の皇帝は特別腹を立ててはいないという説など様々あると思いますが、色々な意見があることも面白いと思います。
十二条憲法の精神が後世にも受け継がれていると締め括られましたが、仏教と儒教も古代から混ざっていたということと同時に、第一条の「和を以て貴しとなす」が強調されていく背景や「みなで物事を議論する」が形骸化あるいは責任不所在へと繋がることについても是非解説をお願いしたいです。
2022/10/11(火)12:52
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戦乱の世でも仏教、法華経を重視した奥州藤原氏が権力拡大を志向する武士と異なるに至った過程としての初代 藤原清衡についても知りたいと思いました。奥州藤原氏が国際通貨としての金と交通の要所を抑えていたのは戦略的でもあると思います。技術者を京都から呼び寄せたりしていることからも、戦に走る前に、情報や技術に依拠した施策が他にもありそうに思えます。
頼朝からの防衛を始めとする平和国家として成り立つ道としては、全国における武器自体の意味を変えるという点で、一つは、刀が権威付けと美術としての価値を持つようになっていく、というような面が考えられますが、それは権力者の意向なので、争いを防ぐ段階では難しい部分があるでしょうか。全ての勢力の軍事への資金流入を絶つ方法を考えるという方向性を編み出すことが必要ですが、そのような政策を行った歴史上の人物について知りたいと思いました。